志賀内泰弘さんの「ギブ&ギブメルマガ」から紹介します。
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この夏の甲子園、8月14日の仙台育英高校対鳴門高校の試合中の出来事です。
5回裏、仙台育英の守りの最中、外野に大きな白いビニール袋が舞ってきました。
甲子園に台風10号が近づき、強風が吹いていたのでした。

センターの水岡蓮選手は、そのビニール袋に近づき、サッと拾ってズボンのポケットにしまいました。
これには、訳がありました。佐々木順一朗・前監督から、「ゴミを拾うことは運を拾うことだ」と教わり、
ふだんから学校周辺のゴミ拾いを、野球部全員で励行していたからです。
おそらく、その普段の行動が、甲子園という晴れの舞台でも自然に身体を動かしたのでしょう。

 水岡選手は言います。
「守備の妨げになってもいけないし、拾って運も味方につけられたらと思った」と。
直後の6回表の攻撃で、先頭打者として打席に立った水岡選手は、ライトにヒットを打ちました。
エラーも誘い、一気に2塁へ。暴投も手伝い、3塁に進んだあと、7点目の本塁を踏みました。

さて、ここからです。「ゴミ拾い」をすると、本当に「運を味方」にできるのだろうか?ということです。
誰もが、「そうなのかもしれない」と思い、「なんか清々しいなあ」と思いはするものの、心の中では疑います。
「そんな非科学的なことがあるわけない」と。
でも、世の中は、すべてが科学で割り切れることばかりではないことは、誰もが知っています。
第六感とか虫の知らせで、危険を回避できたり、反対に「偶然」としか思えぬ「出逢い」で結婚することになったり。
誰もが一度や二度は、そういう経験をしているはずだからです。

しかし、「ゴミ拾い」をすると、「運を味方」にできる。
「ゴミ拾い」をすると、試合に勝てるというのは、けっして非科学的なことでもスピリチャアルな現象でもありません。
論理的に説明が可能なのです。

拙著「なぜ「そうじ」をすると人生が変わるのか?」(ダイヤモンド社)の中で、こんなことを説明させていただきました。
その中から、いくつか紹介させていただきましょう。

まずは、「気づき」です。ゴミ拾いをすると、そこにゴミが落ちていることに気づけるようになります。
ただ、歩いているわけではありません。
ゴミを拾おうとして学校の周囲を歩くのですが、ゴミが目に入って当然です。

ここがポイント。
何も考えず、ただ歩いていたら、ゴミは目に入らないのです。
いや、もっと言えることがあります。
「ゴミを拾おう」と思っていなければ、ゴミが目について「気づいて」いても、拾おうとして身体が動かないのです。

これは、普段の練習に結びつきます。
ただ、「練習する」のではない。
どこが自分に足りないのか。
なぜ、うまくいかないのか。
4番を打つ先輩とは、自分とどこが違うのか。
そう考えて練習するか、しないかと違い。
そうです。「ゴミ拾い」は、集中して「気づく」ことの訓練になるのです。
「ゴミ拾い」は、「気づき」を教えてくれる最も安上がりで最も簡単なトレーニングなのです。

二つ目。「ゴミ拾い」をしていると、いつも疑問が頭をもたげます。
「こんなことしても無駄じゃないか」「拾っても、拾っても捨てる人がいる」「一つや二つ拾っても、仕方がないんじゃないか」と。

でも、実は、ここに大きなポイントがあるのです。
どんなに大量のゴミがあっても、それは無限大ではないのです。
続けていれば、いつか無くなるはず。
一人でできなければ、大勢でやれば早く片付くはず。
たとえ、1億個落ちていたとしても、1億から1を引けば、残りは間違いなく9,999万9,999になるのです。

 それは、野球などスポーツの練習の動機付けにつながります。
誰もが、「こんな練習をしていても、成果が出るのだろうか」という不安に襲われます。
でも、一見、無駄に思える「ゴミ拾い」を励行している人は、「無駄」を「無駄」と思わなくなるのです。
コツコツの成果は、1年2年もかからず、案外早く出ることを知っているからです。
みるみる学校の周りがキレイになってくことを目の当たりにするからです。
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「掃除」や「ごみ拾い」の意義が納得できる話です。

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