「悩んでいた母親が一瞬で救われた子育ての話」平光雄著から紹介します。
—————————————–
 わが子の孝行ぶりを語る親がいます。
「よくお手伝いをしてくれます。」
「ご飯も時々作ってくれます。」
「私が疲れた顔をしていたら優しい言葉をかけてくれるんですよ。」
「この前は置手紙がありましてね‥‥」などなど。
 
 確かに「よい子」でしょう。
 以前、ある本で「簡単に言えば、親の喜ぶことをするのが親孝行だ」という定義がありましたが、
その定義によれば、まぎれもなく「親孝行」な子です。
 現に親は満面喜んでいるのですから。

 しかし、「子が親より大きくなることが親孝行」という定義だとどうでしょう。
先に挙げたような「親孝行」な子で、勉強も運動にも特別励まない、自分の天分を伸ばすような努力をしていない‥‥が、
親の喜ぶことはたくさんする。というような子がいたとしたら?

 いや、勉強などよりもっと大切な孝行をしているのだから、親孝行だ、とも言えますし、
いや、自分の成長につながることを放棄していて親孝行とは言えない、とも言えますね。

 私としては、「親が喜ぶことをするのが親孝行」という定義にはいささか疑問があると思っています。
 それは、「親にとって」よい子であって、主体は親ということではないかと思うのです。
 それで満足しているのなら、親としてエゴイストであると言えなくもないでしょう。
自分への心地よさを捨てても、「私のことはいいから、あなたはあなたのやるべきことをしっかりやりなさい!」
と言い放つべきではないでしょうか。

子供の成長に対しては、そのプロセスで親にとっては多くの不満があるものです。
そこはぐっと我慢し、目先の「孝行」はなくても、わが子が立派に成長しさえすれば、
「結果として立派な親孝行だ」と腹を決めたらいいんじゃないでしょうか。
そして、そう決めれば、「親孝行」に見えたことが、案外お互いの「依存関係」を維持しているだけという事態も避けられます。
「依存」と「親孝行」は見た目似ていることもあるわけで、
それならば、結果として「依存」をキープしていることになり、「逆・親孝行」と言えるのではないでしょうか。
 そうならないためには、子の側だけではなく、親の側も自立が必要ですね。
それができていない「親孝行」は、危険をはらむものです。
—————————–
親孝行なんてまだまだ、先でもいい。
今は何でも全力でチャレンジしてほしい。

親がそう思えると子どもは成長するでしょうね。

校内連絡