『悩んでいた母親が一瞬で救われた子育ての話』から紹介します。
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子どもの悩みを先回りしない

 「集団に溶け込めないみたいで・・・」「○○がつらいみたいで・・・」「仲が良かった友だちとうまくいかなくなったようで・・・」などと、子どもの「悩み」を先回りして、心配の連絡、相談をしてくる親は結構います。
子どもはさして困っていないのに。
あるいは、まだそんなに深刻な事態は起こっていないのに、です。
 そう言うと、「いや、うちの子は我慢して出さないようにしているだけです。」と切り返す親までいます。
疑心暗鬼。それにマスコミの報道が拍車をかけます。
「そうではない」時にそうではないと理解してもらうのは、けっこう骨が折れるものです。
「今日はこんなふうでした。大丈夫でしたよ。家ではどうです?」という旨の綿密な連絡が長期にわたって必要になったこともありました。

 そうした親は、子供が成長していく過程での、壁や摩擦を先回りしてなくしてやるのが、「いい親=よく気づく親、愛情深い親」だとでも言うかのように見えます。

 まるで冬季オリンピック競技のカーリングです。
平坦な氷面をさらに、ほんの少しでも摩擦をなくすように、ブラシでこする。
 しかし、子どものいく道は、そもそも平面でさえないのです。
ごつごつの凸凹(でこぼこ)道に、摩擦なしということなどありえません。
そのありえないことをやろうとしているのです。

 しかし、多くの場合、子どもはさして困っていません。
それなのに、先回りして躍起になるのは、親のエゴじゃないかという自問も時には必要です。
 子どものためではなく、自分が、子どもの困っている、悩んでいる事態を見たくない、あるいはそうなった後に関与したくないという潜在意識がないかと自己モニターしてみることです。
 確かに自分が悩むより、愛するわが子が悩む姿を見ることの方がつらいというのが親心という者でしょう。
子どものために自分の命をささげられるというのが親ですから。
 だからといって、その気持ちを「実行」に移してはいけないことも多いのです。

子どもには悩む・困る権利があるんですよ。
「悩み」「困り」は成長への不可欠な要素ですからね。
だから、「成長する権利」と言ってもいいですよね。
それなのに、子どもが担うべき、そして乗り越え、成長すべき摩擦をカーリングのごとく先回りして除去してしまうのは、親の身勝手とも言えます。

そんなことをしていると、「楽が当たり前」、「困難は誰かがおかしい」と子どもは考えるようになります。
自他ともに不幸にするのです。

ほんのちょっとしたことで、「子供の心が傷ついた!どうするんだ!」と大騒ぎする親もいます。
(そんな親を「操作」し、自分への関心を高めようとするようになる子もいます。)
そこで動き回ることが「愛情深い」ということではありません。
きちんと悩ませ、困らせ、きちんと成長させてやる親こそが本当の愛情ある親でしょう。

子どもにはきちんと悩ませ、困らせてあげましょう。
それは「自分が変わってあげたい」と思うほど、見るのがつらいことかもしれないですが。
しかし、子どもはいずれ自分の力で生きていかなければならないのです。
野球のように「代打」は無理なのですから、その力をつける機会を奪ってしまうことこそ、罪なことですよね。

子育てはカーリングではなく、ラグビーの監督のように、試合が始まったら、グラウンドから離れ、観客席で今までの指導の成果を、「慈しみつつ見守る」ものなのです。 

 

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