2009年になくなられた、俳優の森繁久彌さんが、ある雑誌で話していたことです。
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彼の友人である会社の社長が、地域のロータリークラブの会長に選ばれたとき、ホテルの祝賀会で皆に赤飯を出しました。
ホテルで赤飯というのは珍しいことですが、彼はその時、次のようなスピーチをしたそうです。

自分は長野県の貧しい農家の長男坊として生まれた。
少し成長してくると、この程度の広さの田畑では、いくら頑張って働いても、食べていくのが精一杯で、
年老いていく親に楽をしてもらうことも、弟や妹たちに満足のいく教育を受けさせることもできないということがわかってきた。

 そこで、こういう状況を打開するためには、都会に出て働かねばならないという結論になったのですが、戦前のことです。
跡取り息子が先祖伝来の田畑を放り出して出て行くことを悲しまない親はいない。
親の悲しみが目に見えるから、どうしても口に出して言い出せない。

 そういうことで、ずいぶん悩んだ末、とうとう覚悟を決めて、
ある晩自分の貧しい下着類を風呂敷に包んで、
母親が起きる前に朝早く、家出をしようとしました。
 ところが、台所の土間から裏口を通って出ようとすると、
いつもは寝ているはずの早朝に母親が台所で仕事をしているのです。

そして、振り向こうともせずに、出て行く息子に向かって
「赤飯を炊いておいたから食べていけ」と言ったそうです。

本当に立ちすくんでしまって動けない。
見ると狭い台所の横のちゃぶ台に赤飯が盛ってある。
引きずられるような感じでそこに座ると、母親が炊き立ての味噌汁をそえてくれた。
 しかし、食べようと思っても、のどのあたりに涙の塊のようなものがつかえていて、
口に入れてもどうしてもその赤飯がのみこめない。
その様子を見た母親が「起きたばかりで食欲がないのなら、握り飯にしてやるから持って行け」
と言って、赤飯を握り飯にして渡してくれたのだそうです。
 それを持って暗い外へ逃げるように飛び出したのですが、自分の家出を引きとめもせず、
説教もせず、黙って赤飯の握り飯を渡して送り出してくれた母親が、
その後、きっと台所の流しの端につかまって泣いているであろう姿が、目に浮かんで、
彼もまた遠い停車場までなきながら歩いていったのだそうです。

 そして、都会に出て働いて、ある程度のお金や時間、地位が得られても、
お母さんから渡された赤飯が心の中にいつまでも残り、
ひとつのお守りのようになって、今日までわき道へ行かないですんだ。

 それが、今、あなた方のような立派な人々の集まりの中で、
会長と言う名誉な位置につかせてもらうまでになった。
 だから、今日はどうしても、その思い出の赤飯を皆様に食べていただきたいのだ、
と話されたそうです。

大変な感激家である森繫さんは対談の間、涙を流していたそうです。
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あなたにも忘れられない味がありますか。

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