「座右の寓話」から紹介します。
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私の友人がメキシコを訪れた時の話です。

夕暮れ時、人影の途絶えた海岸を歩いていると、
遠くのほうに誰かが立っているのに気づいた。
近づいてみると、メキシコ人の男が何かを拾っては海に投げ入れていた。
よく見ると、それはヒトデだった。
男は、引き潮で波打ち際に取り残されてしまったヒトデを、
一つ一つ拾い上げては海に投げ入れていたのだ。
どうしてそんなことをしているのだろうと不思議に思った友人は、男に話しかけた。

「やあ、こんばんは。さっきから気になっているんだけど、
何をしているか聞いてもいいかね。」
「人手を海に帰してやっているのさ。見ろよ。
たくさんのヒトデが波で打ち上げられて、
砂浜に取り残されてしまっているだろう。
おれがこうやって海に投げてやらなかったら、
このままひからびて死んじまうよ。」
「そりゃあ、もっともな話だが、この海岸だけでも、
何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。
それを全部拾って海に帰してやるなんて、
どう考えても無理な話じゃないか。
それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。
君の気持ちはわかるけれど、ほんの一握りのヒトデを助けたって、
何にもならないと思うがなあ。」

これを聞いた男は白い歯を見せてニッと笑うと、
友人の言葉などおかまいなしに、
また、ヒトデを拾い上げて、海に投げ入れた。
「今、海に帰っていったヒトデは心から喜んでいるさ。」
そう言うと、また、一つヒトデを拾い上げ、
海に向かって投げ入れたのだった。
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すべてのヒトデを救えないのだから、その行為は無駄である。
一匹のヒトデだけを救うのは不公平である。
これは屁理屈だ。その理屈は、自己欺瞞(自分の良心や本心に反しているのを知りながら、無理に正当化すること。)の匂いを含んでいる。
海に帰っていったヒトデが心から喜んでいるのであれば、
その一匹のヒトデを救うことには意味がある。

困っている人の存在を知った時、私たちはまず
「自分に何かできないだろうか」と思ったりする。
しかし、すぐに「自分一人ができることなんてたかが知れている。
そんなことをしたって何も変わらない。」と思い直す。

しかしながら、人間一人の力は決して無力ではない。微力なだけである。
無力はどれだけ足し合わせても、掛け合わせても、その力はゼロのままである。
それに対して、微力を足し合わせたり、掛け合わせたりすれば、大きな力になりうる。

小さな力だけれど自分にできることをやりたいと私は思いました。
あなたはどう感じましたか。

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