名文を自らの血肉に(素読の勧め)

愛媛新聞の第一面に『道標』と言うコーナーがあります。
愛媛出身者で各分野で活躍している人のコラムですが、
松山市出身で京都大学大学院教授(当時)の辻本雅史さん
の話が興味深かったので紹介します。
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辻本さんは高校の時、怖い古文の先生に出会ったそうです。
生徒を威圧する気迫に満ちたこの先生は、教科書に掲載された
古典を有無を言わさず暗誦させました。

特に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる
「平家物語」冒頭第一段がいかに名文であるか、言葉を
尽くして力説し、一字一句正確に暗記するよう厳命されました。

ほかにも「徒然草」「方丈記」「奥の細道」などについても、
いずれも冒頭の教科書1~2ページ程度の暗誦を同様に課せられました。

 戦後の民主教育の洗礼を受けた私たちは、テキスト全文の
機械的暗記など経験がありません。
だから、「野蛮な」課題を出す先生に反発する思いがあった
そうですが、怖くて口には出せませんでした。
辻本さんは還暦を迎えた今、原文はうろ覚えとなったが、少なくとも
20代までにほぼ正確に暗誦できたそうです。
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江戸時代、学問を志すと、およそ7,8歳から10歳過ぎの間
に意味も分からぬまま経書を暗誦する学習が課せられた。
読み書きもままならぬ年齢で、返り点と送り仮名がついた
漢文テキストを「大学の道は、明徳を明らかにするに在り」
(「大学」)などと、師匠の読み上げ通りにひたすら声に
出して繰り返して覚える。これが素読である。
避けて通れない学問の基礎学習で、最低でも「孝経」や
四書全文の暗誦が強制される。

 素読を一通り済ませば、漢文の本が自由に読めるようになったそうです。
当時、学問の書は中国で生まれた漢籍だったから、
漢文読解能力は学問に欠かせない「語学力」でした。
素読は知的言語習得の学習であり、江戸の儒者は漢文で考えていたわけです。
素読により身体化された言語は自分の言葉として自由に使えます。
子どもが倣い覚えた言葉で自己表現するのと同じです。
素読を終えた人は孔子の言葉で考え、その思想で自らの
内面を満たしていたといえます。
これが、素読が重視された理由です。
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 辻本さんはこうも言います。
「高校時代に苦痛に思われたあの古典の暗誦は素読の学びそのものでした。
歴史を超えてきた名文を暗誦する学習は、わが先人の生みだしてきた
文化の枠を身体の内に溶解させ、自分のものにする学びに他ならないのです。
もちろん、私は『平家物語』の言葉で考えたというつもりはありません。
しかし、古典の言葉が持つ文化や情緒は、私の学問や教養の
構成物の一部となっています。かつての古典の素読体験は、
後に私が仕事をしていく上で大きな意味があったと思われてなりません。」

最後に、 「今の学校は素読のような身体で学ぶ学び方が弱くなっています。
身体で学んだことは自らの血肉となって「生きた知」となります。
子どもたちに、思想豊かな名文の素読を勧めたいです。」
と締めくくられていました。
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単なる暗誦だけのような学習方法ですが、頭には刻まれるのかもしれません。
紙や鉛筆、消しゴム等がない時代のほうが、気合が入るのでしょうか。
そういえば、英語の暗誦も効果があるのだそうですね。

とにかく、心に刻まれるまで声に出して暗誦しましょう。