迷惑をかけずに生きていくことが大切ではない
志賀内泰弘さんのメルマガ『ギブ&ギブメルマガ 』の「ちょっといい話」から紹介します。
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京都をぶらぶら歩いていたら、仏光寺の長い塀の、大きな大きな黒板にこんなことが書かれていました。
「迷惑をかけずに生きていくことが大切」
私は「当たり前のこと」に「今さら」と思い通り過ぎようとしました。
ところが、その次の言葉に「ハッ」としました。
「ではない」とあります。
続けて読むと、
「迷惑をかけずに生きていくことが大切ではない」
さらに、言葉は続きます。
「迷惑をかけずには生きられないと知ることが大切」
我々が「迷惑をかける」といって、パッと思い浮かぶのは、
喫茶店の中で大声で携帯電話をかけたり、路上でつばを吐いたり、
スーパーなどで井戸端会議に夢中の間に、子供が店内を走り回って
他の買い物客にぶつかったり・・・などいうことでしょう。
例えば、会社の中で頑張って頑張って出世して、ようやく課長になれた。
それは、頑張ったという自分の成果です。
でも、自分が課長になれたということで、その人事異動で誰かが課長になれなかった、ということ。
ひょっとすると、誰かが降格されたかもしれません。
自分では「気付かない」けれど、自分と言う存在が、誰かにとってマイナスを与えている・・・かもしれない。
もっと具体的な例。
通勤時に、「今日は疲れているから座りたいなぁ」と思って電車に乗り込む。
「あっ!ラッキー!!」
途中の駅で降りる人がいて、目の前の席が空いた。すかさず座ります。
でも、自分が座ったということで、その席は埋まってしまったのです。
ということは、誰かが座れなくなってしまった。
それを日本語の解釈としては「迷惑」とは呼ばないでしょう。
でも、その席の周りに立っていた人たちは、
「悔しい」「俺が座りたかった」と思っているかもしれません。
ひょっとすると、健康そうに見えるけれど、
膝を痛めていて、立っているのがやっとという人がいるかもしれません。
課長に昇進した場合は、もっと如実です。
「あいつに先を越された」
「あいつのせいで、降格された」
などと、恨まれているかもしれません。
あえて言うなら、これを「知らず知らず迷惑」というところでしょうか。
でも、だからといって、そんなことを気にしていたら、生きていけません。
出世したいし、疲れたら座りたい。
人としては、当たり前のことです。
そこで、仏光寺の黒板の言葉です。
「迷惑をかけずには生きられないと知ることが大切」
人が生きるということは、人に知らず知らず「迷惑」をかけてしまっている。
・・・かもしれない。
かといって、どうすることもできない。
でも、そういうことに、「気付く」か否か。
そういうことを「わかっていて」生きているかどうかで、大違いです。
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そうです。
人は迷惑をかけずには生きられないのです。
みんな助け合って生きているのです。